利休切腹の裏に三成の影? 石田三成奸臣論の真意

こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。
今日は石田三成の奸臣論について調べてみたので記事にしました。
関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府が開かれ、初期の頃は石田三成の評価は忠臣だったのに、
江戸中期から後期になると三成の評価は忠臣から奸臣へと移り変わってしまいました。
歴史は勝者からみた歴史になってしまうので、仕方ないとは思いますが、やはり自分の好きな武将の
評価が悪くなってしまうのは少し悲しいですね。
僕個人的には、(戦国無双のイメージもありますが)石田三成が好きなので、
彼はきっと奸臣ではなかったと信じています。そう。領民にも信頼され、慕われる石田三成が奸臣なわけない!!と思います。
今回は千利休の切腹の裏に三成が暗躍していたのではないかとされた件です。
豊臣秀吉とのパイプは大きく2つあった
豊臣政権では、室町幕府の「申し次衆」や江戸幕府の「側用人」というような決まった職制はなくて、
大名と秀吉の取次役として、秀吉の弟である秀長や、千利休がその役目を果たしていた。
千利休は織田信長の御茶頭からそのまま豊臣秀吉の御茶頭にスライドしていて、秀吉の下では
単にお茶の師匠と言うだけではなく、側近の一人となっていた。
九州の大名である大友宗麟は、家臣への書状で、
豊臣の秀長より、
「内々の事は宗易(=利休の事)へ、公儀の事は宰相(=秀長の事)存じ候。御為にはあしき事は
これあるべからず候」と言われたと記している。
つまり秀長が、「内々の事は利休に相談してね。公の事は僕、秀長に相談して。」
と言う風に言っていたという事。これが1つ目の秀吉へのパイプ。
もう1つのパイプは石田三成ら奉行人のグループも秀吉とのパイプを持っており、この
2本のパイプが並立する形だった。
しかし1591年(天正19年)の1月22日に秀長が病死してしまい、このパワーバランスが崩れることとなる。
秀長が亡くなって約20後の同年2月13日に利休は突然秀吉に蟄居を命じられてしまう。
そして同月28日に利休は京都にある自邸で切腹。
この時の秀吉側の示した罪状は利休が寄進した大徳寺の山門金毛閣に利休の木像を置いたこと。
利休の不遜僭上行為を秀吉が怒ったためとされている。ちなみに、
不遜=おごりたかぶること 僭上=身分をわきまえず差し出た行為をすること
とありますので、簡単にいうと、利休が調子に乗ってやらかしたってこと。(適当)
また、公家の観修寺晴豊も、その日記「晴豊公記」で
「その子細は茶湯道具の新物でも緩怠に取換はし」(=私利私欲をむさぼった行為)だとしている。
この利休の切腹事件に対して三成主導だと言われる理由
調子に乗ってやらかしちゃった利休の切腹の事件で、それが三成主導だと言われる理由は、
前田玄以との関係性からだそうです。
これは大徳寺山門上の木像の一件を暴露したのが前田玄以だったと言われている事と関係してきます。
玄以は当時、京都奉行をしていて、後に三成らとともに五奉行の一員となります。
三成と親しかったために、三成もこの一件に絡んでいたのではないかと言う解釈。
もう1つは吉田兼見の日記「兼見卿記」に利休の切腹の直後、利休の妻子が石田三成によって
蛇責めの刑に処せられるという噂があったと記されている事。
この2つに関しては
①確かに大徳寺の山門上の木像について玄以が取り調べに行っているが、
三成が玄以を動かしてこの一件を暴露したわけではないという事と、
②蛇責めの一件は単なる噂話でしかないという事から、
利休の切腹の件は三成が首謀者ではなかったのではないか?と思います。
利休を切腹させたのは秀吉の個人的な意思から引き起こされた出来事のようです。
何故なら、大友宗麟の書状からもわかるように、利休は豊臣政権の中で秀吉の弟の秀長と
肩を並べるくらいの権勢を持ち始めたことで、秀吉が「町人の分際で生意気な」という
意識を持ったこと、それと利休が芸術家として一歩も引かず、秀吉の嫌っている黒楽茶碗をいつまでも
使っていたことなどに対しての怒りもあったのではないかと思います。
結局、2本のパイプの1本である秀長・利休ラインは二人の死により消滅しました。
そして三成たち、奉行人のパイプだけが残りました。
人々はその結果を見て、三成たちが利休の追い落としを画策したと考えたのではないかと思います。
この一件では石田三成は秀吉の命令を受けて動いたに過ぎず、秀吉人気を保つためには
三成が悪者になる事で、秀吉の人気を維持するという事例の1つ。
まとめ
今回の千利休の切腹の件を外野から見れば、石田三成ら奉行人にとっては秀吉とのパイプが自分たちだけになり、良くも悪くも豊臣政権を管理しやすくなったので、まさに棚ぼた的な感じですね。
そりゃ、「これは裏で石田三成が画策したんじゃ・・」なんて言う人も居そうな事件ですよね。
いつの時代にも居たんでしょうね。なんでも深読みし過ぎちゃう人。都市伝説好きみたいな人が。
秀吉の弟の秀長と肩を並べるほどの権勢を持ち、秀長に「内々の事は利休君にね。そうでないことは僕に言ってきて!」なんて言わせる利休のすごさが秀吉も気に食わなかったんじゃないでしょうか。
利休も織田信長の御茶頭から秀吉の御茶頭にスライドしたので、秀吉の事を甘く見ていたところもあったのかもしれませんね。
どっちにしても、調子に乗って、やりすぎちゃいけない。いや、調子には乗っていいと思います。
人を見下さなければ。僕も歴史からいろいろ学んで、今に活かしていこうかなと思いました。
利休さん、ありがとう。
それでは、また。