源 頼光の名刀と伝説。土蜘蛛、酒呑童子

こんばんは。歴史大好きバイカーのkickです。今日は久々の日本刀についてです。
ついでにその刀に関するエピソードや人物についても調べてみました。
その人物とは源 頼光。源氏、平氏の源氏です。カッコイイ!僕はどちらかというと源氏派です。
神奈川出身なもので。鎌倉は源頼朝が幕府も開きましたし。
解説する刀は童子切安綱。国宝ですね。さて、様々な伝説の残る頼光ですが、
その伝説とはどの様なものなのでしょうか。
源頼光について
ちょっと土蜘蛛がかわいい・・。
源頼光はよりみつとも、らいこうとも読みます。
らいこうという音読みは、雷神様にあやかってそういう風に名乗っていたそうです。
清和源氏の三代目で、ちゃんと実在した人物です。
清和源氏と言うと、武士のイメージがありますが、このころにはまだ武士というものは存在しません。源氏も公家のひとつでした。
武器の扱いに秀でていた、武芸に優れた公家ということです。
当時の源氏は武家というよりも貴族で、兵を指揮する戦う貴族でした。
朝廷に仕えて治安維持を担当し、その傍らでは地方では領地を経営して土地を守るために武装した集団を所持していました。
源満仲を初代とする多田源氏も、皇族から臣下になった源氏・平氏が地方で武士団を作ったものの一つでした。当時は公家から地方に赴任した人たちが地方で武士団を作ることもあったそう。
頼光は20歳前後で宮廷に仕え始めたと言われていて、986年ごろに春宮権大進となり、皇太子:居貞親王に仕えて家政を仕切っていました。
990年に関白の藤原兼家の葬儀に出席しました。このころに藤原の道長に仕えます。
藤原道長主催の競馬にも参加したりと、この頃の頼光は朝廷の権力者と親しくなったりと、公家としての行動を活発に行っていました。
992年に備前守になりますが、備前には代理人を派遣し、自らは都に残りました。
1001年には美濃守になります。この時は現地に赴いてます。その後、但馬、伊予、摂津国の
国司を歴任し、在任期間中は財を蓄えることに専念。
その財を元に藤原道長に贈り物などをして源氏の地位を高めていきました。
道長が朝廷内で大きな力を持つと道長の側近だった頼光も地位が上がり、
摂関家の警護をするなどして、「朝廷の守護」と呼ばれ、弟の頼信と共に武力で朝廷を支えました。
この時期に武門の源氏の基礎を作り上げました。
源頼光伝説
大江山:酒呑童子退治について
一条天皇の時代のこと。都の若者や姫君が神隠しにあい、行方不明になる事態が頻繁に起こっていた。
安倍晴明に占わせると都の北西に住む鬼の仕業だという事が判明。
そこで帝は源頼光藤原保昌たちを討伐に向かわせます。
頼光たちは山伏に変装して山に入り、その途中に洗濯している老婆に出会い、酒呑童子や、城に住む鬼たちの情報を聞き出しました。
頼光たちは山伏の姿で酒呑童子の城に入り、一夜の宿を取らせてほしいと酒呑童子に頼みました。
酒呑童子は頼光たちを怪しんで様々な質問をしますが、頼光は質問に明確に返答し、酒呑童子の疑いを晴らすことに成功します。
疑いの晴れた頼光は酒呑童子たちと酒を飲みながら話をします。
そして頼光は酒呑童子に毒酒を飲ませ、酔っ払って眠ったところを襲い首をはねました。
それでも生首は頼光に噛みつき、襲い掛かりますが頼光はこれを兜をかぶって防ぎ、一行は酒呑童子の首を持ち帰り、京に凱旋しました。
土蜘蛛退治
この話は源氏に伝わる名刀膝丸の由来についての話です。
源頼光は熱病でひと月近く寝込んでいました。
ある夜に大男の法師が現れ頼光を縄で縛ろうとしました。
頼光は起き上がり、枕もとの膝丸を手にして法師に切りかかりました。
切られた法師は逃げたが、騒ぎを聞きつけた四天王が血の跡を辿っていきました。
そうすると平安京郊外にある北野社の後ろにある大きな塚にたどり着きました。
その塚を掘り起こすと大きな土蜘蛛が現れたといいます。
頼光の熱病もその土蜘蛛が原因で、土蜘蛛を退治したらすぐに熱病は治ったそうです。
退治された土蜘蛛は黒鉄の串に刺され、加茂の河原に晒されたそうです。
魔物退治の裏側
日本には土蜘蛛というものは存在していません。土蜘蛛というのは天皇家に反発して穴居生活をする土着のものに対しての蔑称の事をいっていたそうです。
鬼や天狗と言った人の形をしているものは渡来人のことを指していると考えられます。
時の権力に逆らう反勢力派を魔物に結び付けることで権力の権威づけのために使い、
話を誇張・脚色し噂好きな民衆を情報操作しと考えるのが妥当なところでしょう。
天下五剣の筆頭 童子切安綱
童子切安綱は足利家の重宝であり、源頼光の佩刀だったと伝えられています。
天下五剣に数えられる名刀の一つ。
天下五剣とは、鬼丸国綱、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次のことです。
五振りすべてが平安初期~鎌倉時代に作られている。いずれも由緒正しい宝刀です。
その中でも童子切安綱は最も古い時期に作刀されているため、天下五剣の筆頭として取り上げられることが多いようです。
平安時代は現在の日本刀の原型が作られ始めた創世期であり、童子切安綱を作刀した大原安綱は
伯耆国の名工であり、個人名が確認されている中では日本最古の刀工の一人です。
その安綱の作刀のなかでも童子切安綱は別格の出来映えであったようで、後に本阿弥家が記した
享保名物牒にも、「極々上の出来。常の安綱に似たるものあらず」とあり、現代では国宝の大包平と並んで日本刀の最高傑作と賞されています。
安綱を始祖とする大原一門は息子の真守以降も受け継がれていき、一門の拠点となった伯耆国は
中国山地から豊富な砂鉄が採れたこともあり、以降は刀剣の名産地となりました。
童子切安綱の異名は酒呑童子の首を斬ったという伝説から生まれたものです。
六つ胴の切れ味
十三代将軍足利義輝が内乱で命を落とし、童子切安綱は織田信長の手に渡りました。
その後は豊臣秀吉、徳川家康と天下人の間を転々としますが、家康の死後は二大秀忠により越前松平家の手に渡りました。松平家に秘蔵されてきた童子切安綱だが、
17世紀の終わりに表舞台に登場します。津山藩の江戸屋敷で行われた試し切りに童子切安綱も参加しました。それによると、試し切りの達人の町田長太夫が斬り手を務めて試し切りをしたところ、
童子切安綱は六つ胴を一刀両断し、さらには下の土壇にまで切り込んだ切れ味だったという。
ものすごい切れ味ですね。さすが天下五剣の筆頭。美しさだけでなく、刀としての切れ味も一級品という事でしょうか。