歴史・武将・日本刀・鎧兜・バイク・キャンプ・アウトドア。

石田三成 奉行としての才能と活躍

 
石田三成の家紋
この記事を書いている人 - WRITER -
神奈川県生まれの38歳。妻一人、子一人。 好きなモノは日本史と戦国武将・日本刀・鎧・兜・バイク・ツーリング各種・釣り・登山。今まではバスケットをやっていましたが加齢とともに体がついていかなくて引退。一人でできるスポーツ探してます。 更新に時間がかかりますが、マイペースにゆっくりと更新を続けていきますので皆様、気長にお願いします。
詳しいプロフィールはこちら

こんばんは。歴史大好きバイカーkickです。明日は仕事休みなんで、妻と子供が寝静まった後、

一人でひっそりとブログを更新しています。最近は陽も短くなったし、朝晩は少し涼しく、秋の風を感じながら季節の移り変わりを感じています。戦国武将の時代はもっと季節の移り変わりを感じれたのでしょうか。

さて、今回は奉行としての三成を調べてみました。軍師シリーズの記事軍師の仕事 兵站・陣城編でも書きましたが、官僚型の軍師の筆頭に出てくる石田三成。その官僚型軍師の才能と活躍した内容とは?

 

奉行としての活躍 太閤検地・刀狩り

刀の画像

padrinan / Pixabay

1585年、秀吉が従一位関白(じゅいちい)に叙任されると同時に三成も従五位下治部少補(じゅごいげじぶのしょう)に叙任されました。

治部少補とは、公家らの系譜や婚姻を管轄する治部省で、2人いる次官の中で下位の官人の事を言う。

もちろん、これは名誉職としての称号で、実際に三成が朝廷での職務を求められたわけではありません。この後から三成は石田治部少補、略して石田治部と呼ばれるようになりました。

この頃に三成が行ったことの中で重要な項目が、

太閤検地と刀狩りです。古今武家盛衰記によれば、両方とも三成の提言によるものだったそうです。

太閤検地は秀吉の行った検地の総称で、検知とは戦国時代に、田畑の面積と収量を調査することを言った。その中で、1582年以降、秀吉が全国的に行った検地を太閤検地と呼びます。

 

太閤検地の意義は村ごとに検地帳を作り、耕作している農民の名を記したことです。土地を実際に耕作している農民を把握し、武士と区別することも目的の一つでした。

次に刀狩り。これは文字の通りに、刀を没収することです。1588年7月に秀吉は全国に対して刀狩り令を公布しました。一般的には刀の没収を命じた法令として有名ですが、弓、槍、鉄砲などもその対象になっています。当時、成人男性が帯刀することは一般的であり平時は農民として農業に従事し、戦時には合戦に加わるという半農半士が多数いました。半農半士は相当な数の武器を所持していて、これが合戦や村落での紛争に使われていました。

刀狩りの狙いは半農半士の完全な武装解除ではなく、身分として刀を身に着けることを禁止することでした。これは、戦国時代に農民と武士を見た目から判断することが出来なかったためです。

太閤検地も刀狩りも、施策は違えども目的は同じで、兵農分離でした。武士と農民を身分として区別しようとしていたのです。

 

博多が都市として発展した基礎を作った博多奉行、石田三成

福岡の街並み

刀狩りや太閤検地で行政手腕を秀吉に高く評価された三成は、次は堺と博多の奉行を命じられました。

堺は国際易港として発展していて、有力な商人により自治も行われていました。

堺では、織田信長が直轄地として以来、もともとは清須の商人だったという松井友閑が奉行を務めていました。しかし、1586年に秀吉は松井友閑を罷免。代わりに三成と小西隆佐を博多奉行に抜擢しました。小西隆佐は小西行長の父で、堺の商人でした。小西隆佐は地理にも明るく、人脈もあったため、

その辺りが欠けていた三成の補佐として助言させるために隆佐がつけられた可能性が高いと考えられます。

堺に着任した三成がやった仕事の中で一番の大仕事は堺の環濠を埋めた事でしょう。

堺は自治都市として発展してきました。都市を守るための環濠を埋めるという事は、堺の自治を否定したこととイコールになります。こうして堺は完全に秀吉の支配下に置かれることとなりました。

このころ秀吉は九州攻めを計画していて、堺をその兵站基地にしようと計画していたため、堺の支配は必須でした。

 

三成は九州の平定後、今度は博多奉行として博多の復興を秀吉から命じられました。

博多は古くは那津、あるいは那大津と呼ばれた国際貿易港でした。

堺と同様に有力な商人によって自治が行われていましたが、戦国時代に大友氏と毛利氏の間で

博多をめぐっての争奪戦が繰り広げられ、戦乱の中で博多の町は消失してしまいました。

秀吉は博多を朝鮮出兵の拠点にするため博多を復興させようとしたのです。

そのため博多は入り江や湿地帯も埋め立てられ、近代都市としての発展を遂げることになります。

博多奉行となった三成は、軍艦の黒田義孝や、博多商人の神谷宗湛や嶋井宗室らの協力を得て町の復興に取り掛かりました。この時に秀吉によって行われた博多の町割りは「太閤町割り」と呼ばれ、現在の区割りや地名に当時の名残が残っています。

 

まとめ

三成は秀吉の奉行として活躍しています。奉行というのは文字通り、主君の命令を奉じて実行する役職です。三成がその政策を決定する立場にあったわけではありませんが、その実行力には目を見張るものがありました。

堺の環濠を埋めることによって堺の自治を実質的に否定したり、博多の町の復興に商人の意見を取り入れたりと、三成は当時にしては柔軟な考え方の持ち主だったのでしょうか?

戦や合戦の時代が終わりを告げ、国の統治に重点が置かれるようになると、武功派の武将よりも三成のような官僚型の武将のほうが重宝されるのでしょう。それがまた妬みを買ってしまうのかもしれませんが・・。

おそらく後に天下人になった徳川家康にとって三成のような実力を持った存在は最も欲しい人材だったと思う。きっと現在でも三成のような人材は引く手あまたでしょう。

今も昔も変わりなく、組織に必要とされる人材というのは三成のように頭脳明晰・冷静沈着な人というのは変わらないものなのですね。

 

それでは、また。

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -
神奈川県生まれの38歳。妻一人、子一人。 好きなモノは日本史と戦国武将・日本刀・鎧・兜・バイク・ツーリング各種・釣り・登山。今まではバスケットをやっていましたが加齢とともに体がついていかなくて引退。一人でできるスポーツ探してます。 更新に時間がかかりますが、マイペースにゆっくりと更新を続けていきますので皆様、気長にお願いします。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 歴史大好きバイカーkickのキクログ , 2019 All Rights Reserved.