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石田三成の家紋と旗印。そして愛刀は?

 
石田三成の家紋
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神奈川県生まれの38歳。妻一人、子一人。 好きなモノは日本史と戦国武将・日本刀・鎧・兜・バイク・ツーリング各種・釣り・登山。今まではバスケットをやっていましたが加齢とともに体がついていかなくて引退。一人でできるスポーツ探してます。 更新に時間がかかりますが、マイペースにゆっくりと更新を続けていきますので皆様、気長にお願いします。
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こんばんは。歴史大好きバイカーのkickです。今日は、石田三成の家紋・旗印について。

それと、石田三成の愛刀についても記載していきます。

実は僕も調べてみて三成の愛刀を知ったのですが、石田切込正宗は、脇差もあったのですね。

三成も捕縛される最後まで身に着けて持っていたというもので、最後まで三成は豊臣秀吉に対して

の忠義を通していたのですね。

なぜならば、最後、六条河原で処刑される寸前まで、三成は命を惜しみ、痰に悪いから干し柿は食べないという選択をしていたからです。本当に、命ある限り豊臣政権を復活させようとしていたのでしょうね。その辺も、いわゆる、官僚タイプの石田三成のイメージとは違い、強い意志と、不屈の闘志を持っている、アツイ人なのかな?なんて考えてしまいます。

 

この記事では、家紋・旗印と三成の愛刀についてを記載しています。あと、三成はどんな人だったのだろうか?という事、そして三成の最後についても記載しています。

この記事を読み終えると、きっともっと石田三成が好きになり、歴史に興味が湧いてきますよ?

僕なんて、まだまだモグリですが・・(笑)

さて、それでは早速本題に入りましょう。

 

そもそも、家紋とは?

さて。石田三成の家紋の解説に入る前に、基礎知識として家紋について少しお話しさせて頂きます。

と言うのも、そもそも、家紋ってなあに?という状態では、せっかく書いたこの記事の効果が半減してしまうのではないかと思っています。

 

戦前の日本では、旧民法のもと、「家制度」が存在していて、その当時の正装とは、

自家の家紋の入った紋付袴が正装とされていました。

その後、戦後はどんどんと西洋化が進み、家紋は古典的なものとなり、家紋の存在は次第に薄くなっていってしまいました。

家紋は先祖代々伝えられてきたその家を表す紋章であり、また、同じ苗字であっても同じ家紋とは限らず、出身地や家計・家業などによってさまざまな種類の家紋が伝わっています。

家紋は苗字と合わせて自分の家計やルーツを実感できる、親しみやすい紋様です。

 

由来と歴史

mafutto / Pixabay

家紋の種類は6000種と言われています。細かい紋様の違いまでを区別していくと

2万種類とも言われています。いつ、どのように発生したのでしょうか。

実は家紋は日本に家紋の文化が生まれる前から、紋様というものは使われていました。

代表的な例としては縄文土器とか、弥生土器とか。

縄文土器や弥生土器に見られる紋様は様々なものがあり、その1つ1つに意味があったそうです。

 

と言うように、つまり日本では家紋が生まれる前から、作ったもの、作りだしたものに対してそれを自分のものだと認識するために紋様を用いる「紋様文化」のようなものがあり、それが家紋の発生のキッカケとなったのです。

その後、中臣鎌足を中心として大化の改新が行われて律令国家が成立した奈良・平安時代となると、

朝廷に仕えている貴族たち(=公家)自分の好みの紋様を装飾してあしらった衣服や家具などを使い始めました。これが家紋の生まれたきっかけの1つです。

 

公家の家紋の由来

jaygeorge / Pixabay

公家に関しての家紋の由来には3つの説があります。

・牛舎の車紋が由来説

・衣服の紋様説

・その他の理由説(アバウトすぎますが)

この3つの説になります。まずは牛車の車紋説から。

 

牛車の車紋が家紋になった説

これは牛車に使用されていた車紋から転じて家紋になったという説です。

家紋の由来としてはこの説がもっとも一般的とされているものです。

当時の公家たちにとって牛車は自分のステータスであり、たくさんの牛車の中からいち早く自分の牛車を見つけだすための目印も必要でした。そこで考えられたのが自分の牛車に好みの紋の目印をつけ、

それに加えて優美なデザインで装飾して周囲に自分の権力を誇示した。これが家紋の由来説。

牛車がステータスって、現代でも、高級車はステータスですよね?

千年とかの長い年月が経っているのに、価値観はそんなに大きく変わらないってなんか面白いですね。

 

衣服の紋様を由来とする説

次は、公家が着用していた衣服の文様が家紋となったというもの。

久我家では、好んで竜胆だすきという紋様を使っていたとされているが、

後にこの紋様を家紋としている。自分の好む文様が正式な家紋になった例。

 

その他の理由から説

これは、何らかの特別な理由やゆかりによって家紋となった説。

例えば菅原道真は梅を大変愛していたとされているが、菅原家の家紋が梅鉢紋であるのも、

先祖を偲んでという理由がルーツとなっている。

 

家紋は、当時作る必要があってわざわざ作ったものではなく、

装飾の延長で自然に発生したものが家紋であったため、その発生の仕方も様々です。

全ての家紋に共通していることは、その紋がその家に、何かしらのゆかりがあり、

その文様やモチーフを用いたデザインが、後の正式な家紋となっていったということ。

 

武家の家紋の由来

刀の画像

padrinan / Pixabay

牛車の装飾から始まった公家の家紋が成立して、すぐに武家の方にも家紋が広がったわけではなく、

武家の家紋が生まれたのは必要に駆られてと言った感じ。

鎌倉時代初期の源頼朝の時代にはまだ武家の家紋は見られていないとされています。(諸説あり)

 

旗指物由来説

旗指物とは、のぼり旗のことで、武士は戦の時は必ず目印として旗を持参していた。

その旗に自分の目印を入れて、旗だけではなく兜や鎧の袖にも自家の家紋を描き、

自分の存在を明らかにするものとして活用された。のちにこの旗印が家のシンボルとして家紋になったという説。

 

陣幕を由来としている説

戦に使う旗だけでなく、陣幕に染め出す幕紋をルーツとしている家紋も存在している。

武士は陣屋の中で戦の戦術を練っていたことから陣幕も武家を象徴とする神聖なものとして

考えられていた。そのことから幕紋を起源として家紋になったという説。

 

衣服の文様を由来とするもの

これは公家の「衣服の文様を由来とする説」と同様。

 

石田三成の旗印 大一大万大吉の意味

石田三成の家紋

石田三成といえば大一大万大吉というほどにこの、大一大万大吉という言葉は有名ですね。

でもこれ、家紋ではないんです。旗印に使っていたもので、旗印とは、軍旗の事。

戦場で、他との区別をして、わかりやすくするために旗につける家紋や文字の事。

 

大一大万大吉の意味

一人が万人のために、万人が一人のために力を尽くせば天下が安泰になる

と言う意味です。この大一大万大吉と言う言葉は、石田三成が作ったものと思われがちですが、

石田三成よりも前に、こちらは平安時代末期ですが、石田為久という武将が軍旗として用いたとされています。この石田為久と言う人物は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝に従妹に当たる木曽義仲を討ち取ったことで有名ですが、三成とは同じ「石田」同士でも、血縁関係はありません。

 

石田三成の家紋 九曜紋の意味

石田三成の家紋・・というか、石田家の家紋である九曜紋。これにはどんな意味があるのでしょうか。

九曜と言うのは月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・日曜・計都・羅睺という

9つの星を指しています。もともとはインドの天文学や占星術で扱われていたものだが、

中国・日本へと伝わり、平安時代以降の貴族・武士の間で信仰の対象となっていった。

この9つの星が家紋になったものが九曜紋。

伊達政宗や細川忠興などの多数の武将の間で用いられてきました。

 

石田三成ってどんなひと?

TeroVesalainen / Pixabay

佐和山城主として家臣・領民のために働き、尊敬される存在だった。

根拠は、「領主は財産を残すべきではない」という方針を貫いたこと。

江戸時代に記された「名将言行録」によると、三成は常々、

「奉行人は主人より賜るものを遣い、合わせて残すべからず」と語っていたといいます。

ここで言っている「主人」は豊臣秀吉の事。奉行人は三成のような領主の事。

領主が財産を残すべきではないというのは、財産が残るのは領民から収奪し過ぎている事を意味しており、三成にとっては盗人に等しい行為として認識していたから。

この発言の通り、関ヶ原の戦い後、東軍によって佐和山城は落とされたのだが、佐和山城には

金銀財宝は全くなく、東軍の武将たちが驚いたという逸話もあるほど。

 

また、石田三成 奉行としての才能と活躍にも詳しく書きましたが、

佐和山城を居城とした所領(近江北部の4郡、犬上群・坂田郡・東浅井軍・伊香群)に、

掟条々を公布している。この掟条々は庶民の立場に立って細かい規定を定めたものであり、

このことから、三成は家臣・領民のために働き、尊敬される存在であったことが伺える。

 

三成は誤解されることの多い人物で、徳川政権の政治的な思想から三成の名誉は貶められ、

陰謀家・奸臣と見られる事が多く、それでなくとも人情を理解しないエリート官僚とか、

秀吉の命を忠実に実行するだけの官僚と言った見方をする人は未だに多い。

だが、本当の三成は多くの苦悩や葛藤、激しい感情をもった人物だったのではないでしょうか。

 

関白秀吉の意向に逆らってまでも忍城の水攻めに反対を直言したり、

佐和山城から筑前に移れば周囲の所領も含めて50万石は下らないと言われているのに、

「遠隔の地に行くと秀吉の用を果たすことが難しくなるから」と言った理由でそれを辞退してみたり。

「私」よりも「公」に重きを置く、清廉潔白な人物だったのだと思う。

 

鷹狩りが趣味だったりする意外な一面もあり、自分のお気に入りの鷹を貸し出す際にも

その鷹の扱い方などを事細かに書いて送るというすこしマニアのような一面もあったよう。

 

石田三成と言う人物は、堅実でくそ真面目で義理堅い人。自らの旗印の大一大万大吉にもある通り、

「私」よりも「公」に重きを置く、清廉潔白な人物で、少しだけマニア気質?

というのが僕の見解です。

 

三成の最後

Larisa-K / Pixabay

三成は関ヶ原合戦での敗北の後、直ちに再起を図るべく逃亡した。

三成の捕縛状況については信頼のできる一次資料ではなくて、やや信頼度の劣る二次資料によるものになってしまうが、三成を捕縛したのは田中吉政だとされている。

「田中興廃記」によると、吉政が三成を捕まえるために井口村(滋賀県長浜市)を拠点として

周辺地域に探索部隊を派遣した。その一方逃亡中の三成は腹痛を起こして歩行が困難な状況に陥っていた。なんとか古橋村について、村の与次郎太夫に匿って貰ったそう。しかし三成は累(関わり合い)が与次郎太夫に及ぶことを恐れ、自身の居場所を吉政に伝えるように与次郎太夫に命じた。

与次郎太夫も断ったが、とうとう断り切れず、吉政に三成がいることを報告した。

 

もう一方の「寛政重修諸家譜」によると、三成は近江国草野(長浜東北部・米原氏東北部)で

樵(キコリ)の姿をして隠れていたが、田中吉政の家臣の中に三成の顔を知るものがいて、捕まったという。

 

吉政に捕まった三成は「戦いに負けたことは無念である。しかし太閤への恩と思えば今は後悔することもない。また、今日まで身に着けていた脇差は先年、太閤から賜った切刃貞宗という珍しいものである」と述べたという。

 

三成の捕縛された地は、この2通りの説がある。

9月24日、三成は家康が陣を敷いていた大津に連行された。

捕縛された後に、三成は京都市中を引き回され、10月1日に六条河原で斬首された。

処刑の直前に喉の渇きをいやす為に干し柿が与えられたが、「痰の毒」といって最後まで食べなかった。これは三成の意地だろう。こうして三成は処刑された。享年41歳。

 

三成の愛刀 石田正宗

童子切安綱の画像

重要文化財。銘:無銘 相州正宗(名物 石田正宗) 流派:相州伝

 

切込正宗の異名を持つ石田三成の愛刀。

享保名物帳所載の名物で、号の由来は豊臣家家臣で五奉行の一人で知られる石田三成の所持に因む。

棟に二か所の大きな切り込み疵がある事から「石田切込正宗」とも言われる。ただし、この切込は

この刀の武功を物語るものではあるが、三成が奮戦してこの切込を作ったのではないであろうとの見解が一般的。

 

 

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