石田三成の朝鮮出兵

こんばんは。歴史大好きバイカーkickです。
今日は石田三成と朝鮮出兵に関しての記事を書いていきます。
石田三成らのように、秀吉の近くで実務を取り仕切っている「史僚派」と、
加藤清正・福島正則らの戦いで武功を挙げて出世した「武功派」の確執の原因となったのもこの朝鮮出兵が元となっているとも言われています。
三成の朝鮮出兵はどのようなものだったのでしょうか。
文禄の役の船奉行に任命された三成

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1592年3月から文禄の役が始まりました。秀吉の目的は「仮道入明」。明を征服することです。
明に侵攻するための道を借りるとして朝鮮半島に軍勢を送りました。この文禄の役では、三成は船奉行に任命されました。
船奉行とは軍船の管理と海上輸送を統括する職で、やっていることは実質の兵站奉行です。
この時に共に船奉行に任命されたのは大谷吉継や岡本良勝らで、それを三成が取りまとめていました。
朝鮮出兵の軍勢そのものはそれぞれの大名が決められた人数を動員するようになっていましたが、兵糧や弾薬・馬の飼料などは船奉行である三成らの役割でした。
日本軍は釜山から上陸し、破竹の勢いで北上しました。20足らずで漢城(現在のソウル)を陥落させました。その報告を聞いた秀吉は自ら渡海すると言い出しましたが徳川家康らの反対により秀吉自身の渡海は取りやめとなりました。その代わりに三成の他、大谷吉継、増田長盛らが
「朝鮮在陣奉行」として朝鮮に渡海しました。
漢城に到着した船奉行三成
三成らが漢城に着いた時にはすでに日本軍はさらに北進していて、平壌城も陥落させていました。
現場は明への侵攻の準備も進めていましたが、三成らが兵糧・弾薬の状況を確認をした結果、
想定していたよりも随分と少ないという結果になりました。そのため、朝鮮に渡海していた大名を漢城に集め、今後の軍事展開について軍議を開きました。その結果、明に侵攻するには時間的な猶予が必要という結論に至りました。
こういった状況の中、最前線の平壌城に駐留していた小西行長は明との講和交渉に乗り出しますが、日本と明との認識に大きな差があり、交渉はなかなか進みません。そして
1593年、小西らが守備する平壌城は明軍4万と朝鮮軍1万の連合軍に包囲されてしまいます。
小西らは降伏するしか道がなくなり、仕方なく降伏します。そして退路の安全を保障された日本軍は平壌城を明け渡し、漢城まで撤退しました。この後、日本軍は碧蹄館の戦いで明軍を破り、やっとのことで講和交渉が本格的に始まりました。
文禄の役の終わりと慶長の役。そして朝鮮出兵の終わり
こうして明から講和のための使節が日本に派遣されることになると、三成は小西行長と共に明使を案内して名護屋城に到着。講和交渉の進展により文禄の役は自然と休戦になりました。
1596年、明から秀吉を日本国王に封じる使節が来日し、秀吉は大阪城で使節を迎えています。
朝鮮八道のうち、南部四道の割譲を求めた秀吉に対し、明からの条件は日本軍の明からの撤退を命じるものであることがわかり、講和交渉は決裂します。
このために、1597年に秀吉の命令を受けて、日本の大軍が再び渡海することになります。
これが慶長の役。目的は南部四道を自力で占領することです。
慶長の役でも三成が奉行として兵站の担当をしましたが、三成が朝鮮へ渡海することはなく、
三成は伏見にいて、縁戚の福原長堯堯や熊谷直盛と、家臣の垣見一直、太田政信らを軍目付として派遣した。この軍目付が文禄の役の時の三成のように渡海した大名の動静を秀吉に報告する義務を帯びていたために武功派と史僚派との軋轢を生じるようになってしまった。
日本軍は約2か月で朝鮮半島南部の二道を占領したが、明・朝鮮連合軍の反撃によって苦境に陥ってしまう。こうした戦況の悪化のなか、秀吉が翌年の8月に死んでしまう。
三成は五大老らと協議の末、朝鮮派遣軍には秀吉の死を伝えないまま撤退の指示を出し、日本軍を帰国させた。ここに秀吉の朝鮮出兵は名実ともに終わりを告げました。

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