青春の続き。楽しかったあの時をもう一度。

石田三成は何故武功派から憎まれたのか?

 
この記事を書いている人 - WRITER -
こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。 当ブログ、「歴史大好きバイカーkickのキクログ」を運営しています。 神奈川県在住。1981年生まれの40歳。1児の父です。既婚。 現在は会社員として働く傍ら、ブログコンテンツ制作、情報発信、メディア運営などをしています。 記事の内容は、ほとんどが自身で実際に経験してみた物事を記事にしています。 このブログでは、僕と同世代の方たちが、楽しい人生を過ごすことをサポートする目的で運営しています。 誰にでもあった「楽しかったあの頃」 このブログを通して、その続きを楽しむことができたなら幸いです。 だから、キャッチフレーズは、 「青春の続き。楽しかったあの頃をもう一度」なのです。 マイペースに更新していきますのでみなさまどうぞよろしくお願いいたします。
詳しいプロフィールはこちら

こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。

少し前までは「今日も暑いねー」なんて言っていたのに、

最近では「寒っ!!長袖長袖・・」というようになっていますね(笑)

いつの間にやら季節が移り変わっていたようです。

時間の流れって意外と早いものですね。気が付けば僕も立派なおっさん。

まだ若い気でいたのですが、ふとしたことから身体の衰えを感じ、

「身体が動かせる間に動いておかないと、もう動けなくなる」と言った焦りに駆られ、

トレーニングと、10年ぶり位のバスケットボールを再開しました。もちろん、怪我をしない程度に

セーブしてですが。それでもやっぱりスポーツは良いですね。ひたすらバスケに意識を集中することができるので、ストレス解消にもなりますし、心理面でも前向きになったのが実感できました。

そして、大人になってからは無難に、波風立てずに目立たず、そしてひっそりと生きて行くと決めていたので、「負けたくない」という感情はずっとなりを潜めていたのですが、

その「負けたくない」と言った感情も出てくるようになりました。

気持ちも若返ったのかな?とにかく、生活に張りが出たようで、楽しいです。

話が逸れましたが、今回は何故、石田三成は武功派に憎まれたのか?について調べてみました。

 

豊臣家の衰退と滅亡の原因は?

 

honoo

その原因は、豊臣政権を支えるべき存在のはずの三成達と、武功派の武将たちの対立が原因。

特に秀吉の寵愛を受けた同年代の武功派の武将たちが、

三成に弓まで引くようになった原因は何でしょうか?

 

1573年に織田信長は越前・朝倉義景と近江・浅井長政を攻め立て、両家を滅亡させた。

その浅井責めに功績のあった(当時)木下藤吉郎は浅井の本城である小谷城と、

江北三群十二万石を与えられ、羽柴秀吉を名乗った。

その後、秀吉は琵琶湖畔の長浜に築城した。

秀吉の天下取りは近江から始まり、その近江出身者の家臣第一号が石田三成でした。

 

秀吉は十二万石の大名にはなりましたが、出自が武家ではないため、尾張出身の秀吉には

先祖伝来の家臣団や、子飼いの家臣さえもいませんでした。

 

わずかに弟の豊臣秀長を尾張から呼び寄せた、

・秀吉の母親の従妹が嫁いだ農民の倅の虎ノ介(=加藤清正)

・秀吉の父親と腹違いの兄にあたる桶屋の息子の市松(=福島正則)

・馬喰いの倅である孫六(=加藤嘉明)

などの尾張出身の肉親に近い若者たちを家臣に加えていました。

 

彼らは年齢的にも近くて、三成が秀吉に仕えた天正三年の時点で、

三成は16歳。清正は14歳。正則は15歳。孫六は13歳。

この時点で新参者の三成は年長者となる。

 

またこの前後に秀吉は近江出身の大谷吉継、長束正家、増田長盛などを家臣として採用している。

彼らは近江出身であり、使僚派(行政官)としての活躍が記されていて近江閥と呼ばれている。

その中でも三成・正家・長盛は秀吉晩年の五奉行にも名を連ねている。

また、もう一人の近江閥で、三成の親友である吉継も、秀吉によれば

「百万の兵を与えて戦の指揮を執らせてみたい」と言うほどの智将だってようだが、

現実には合戦での武功よりも「軍監」「奉行」の役割を多くになった。

 

使僚派と武功派

 

日本刀の画像2

秀吉の家臣団を大別すると使僚派と武功派の2つに分けられる。

使僚派は主に近江出身で、武功派は主に尾張出身。

そこには近江・尾張と言う地域の違いが出ています。

 

近江は「近江商人」と呼ばれる人々の出身地で、「計算に明るい」という性格を示している。

特に目立ちはしないが、手堅くいく実践派と言う感じ。

戦場での華々しい手柄や武功ではなく、兵站などの裏方に徹して秀吉の天下取りを

支えたのが使僚派、近江閥だった。

 

武功派は秀吉の天下取りを決定づけた戦いである、対柴田勝家の「賤ヶ岳の合戦」

の「賤ヶ岳七本槍」で良く知られている。実は七本槍の中で尾張出身は

福島・加藤・平野の三人しかいないが、それでも福島・加藤は槍働きの自分たちのほうが

秀吉のために大きく貢献できているという自負があった。それが地味な働きで秀吉の大きな信頼を勝ち取っている三成に対して「へつらい者」という侮蔑に。そして憎悪になっていった。

 

さらには秀吉の正室である北政所・おねは尾張出身である。福島正則・加藤清正にとっても

母親のような存在であり続けた。尾張出身者の精神的な主柱でもあった。

一方側室の淀殿は秀吉が信長の命で滅ぼした浅井長政の長女で、

当然、近江出身なので三成ら近江出身者の中心的存在だった。

しかも秀吉の後継者・秀頼の勢いもあった。この2人の確執があったのかどうかは定かではないが、

もしもあったとしたならそれはそのまま、尾張閥と近江閥の確執に繋がっていったのではないかと

考えられる。

 

天正11年(1583年)春、柴田勝家は2万7000の大軍で出陣した。

それに対する秀吉は5万で迎え撃つ。勝家を背後から脅かすために三成に越後の上杉景勝との

提携を命じた。これが三成と、上杉家の青年家老・直江兼続との友情のきっかけとなる。

 

秀吉は勝家に味方する織田信孝(信長の3男)を牽制するために1万5000を率いて岐阜城に向かった。勝家の甥・佐久間盛政はこの機を突き攻撃に出た。

秀吉は三成に1万5000人分の兵站(食料・松明・道筋の安全)を命じて、三成はその期待に応え、

52kmの美濃大返しを成功させた。秀吉軍はわずか5時間で岐阜から賤ヶ岳まで戻り、

結果として賤ヶ岳の合戦の勝利につながった。これが三成の大きな武功となり、秀吉に

「我に異ならぬ才器を持つ者は三成のみ」と言わしめた三成の実力だった。

 

その後も三成は四国征討・九州征討・小田原攻めなど、秀吉の天下取りに臨む合戦の

全てで兵站の管理・統制を担った。

三成は淡々と、着々と仕事をこなした。それはあくまでも秀吉に尽くし続けるという忠義があったから。しかし、一方では三成の生真面目さは他人の目には「横柄」「融通がきかない」「ご機嫌取り」

と言うように映ってしまう。要するに、彼らには三成は「虎の威を借る狐」であった。

 

武功派には槍働きこそが武士の全てなので、三成の兵站や内政の重要性は理解が出来ず、

そこまでの思いが至らない。

 

賤ヶ岳の合戦で、柴田勝家を脅かすために上杉景勝と連携をするために直江兼続と折衝を行ったのも

三成で、三成と兼続は同い年であり、兼続も三成同様に義に篤い武将であった。

書簡を通じて折衝が開始されてから、その付き合いは上杉景勝が秀吉に臣従した後まで続いている。

こうして三成は若くして外交官としてもデビューしていた。それ以降、三成には外交官としての

仕事も加わった。

 

秀吉はその後に紀州の根来・雑賀衆の討伐に6万と言われる大軍で攻め、討ち滅ぼして紀伊半島を

平定した。その勢いでそのまま四国征討に狙いを定める。

2か月ほどで長曾我部元親を降伏させ、秀吉の支配の届かないところは九州・関東・東北のみで、

この状況ですでに秀吉は天下人となっていた。

天正十五年(1587年)正月に秀吉は九州征討を発した。この征討には30万の将兵が従う。

30万人分の食料、騎馬2万とその飼料を1年間にわたって用意しなければならない。

さらに兵糧と弾薬もだ。これに対して秀吉は、「それが出来るのは佐吉(三成)しかいない」

と、三成に兵站の管理・統率を担わせた。そして三成は見事にこれをやり遂げたばかりではなく、

島津との取引にも貢献した。(島津氏の降伏とその後の処理など)

その後の小田原・北条攻めも同様に三成の兵站の管理・統率が無ければ秀吉の天下平定最後の戦いも狙い通りにはいかなかったのではないだろうか。

 

しかしそんな三成の活躍も、戦場で戦う武功派の面々には、なぜ三成ばかりが重用されるのかが

理解できず、そして嫉妬した。

「自分たちのほうが命を的にして秀吉の天下のために戦っているのに」

「多くの部下も失っているのに」

武功派の面々はこういう嫉妬の感情から三成への憎しみに繋がっていったのではないでしょうか。

 

まとめ

 

うみ

武功派と使僚派。尾張閥と近江閥。どちらも秀吉の天下平定のため、必死に働いていたんだと思います。武功派は命を懸けて戦います。感覚としてはより近くに生死を感じるでしょう。

 

肉体的にも疲れるし、いつやられるかわからないと言った状態は、ストレスだって感じるだろうし。

三成たち使僚派は、自分たちよりも安全な場所で、特に命を脅かされることもなく、

しかもやっていることが兵糧の管理や騎馬の管理などの(もちろんそれだけではないのでしょうが)

危険の少ない、武功派から見れば「楽な作業」です。

 

武功派からの視点で見てみれば、そんな楽(そう)な仕事してて、秀吉からは褒められ、

重宝されていれば確かに「虎の威を借る狐」に見えますね。そりゃムカついてきますよ。

 

僕だってその状況ならきっと、

「チッ!楽して出世しやがって!俺なんか毎回命がけなんだぞ!槍も持てないくせに偉そうに!!」

とか悪態ついていると思います。僕、性格曲がってるんで。

 

あなたの学校とか会社とかでもいませんか?「現場を何にもわかってないくせに!!」とか、

「社長はいいよな。大して仕事しなくても金が入ってくるんだからさ!!」(そんなわけない)

とか吠えている令和の清正・正則みたいな武功派の方々。確かに戦闘力は高いんだろうけれども、

それだけじゃいけないってことは先人たちが身をもって示してくれています。

そういう武功派の人々には、是非とも広い視点を持つことをお勧めしましょう。

まあ、僕みたいな武功も使僚もどっちも出来ないのが武功派の人にそんなことを言ってもその場で打ち取られるのが関の山ですが。

 

僕の意見としては、使僚派・武功派ともに、やっている仕事内容は違えど、目的は一緒だと思います。

武功派は視点が点で構成されていて、使僚派は面で全体を見ている感じでしょうか。

武功派は自分たちが最大限に能力を発揮できる環境を作ってくれている使僚派に敬意を払い、

使僚派は自分たちでは到底及ばない身体能力や勇猛さに敬意を払う。そして能力を十分に発揮できるように最善を尽くす。

 

こんな関係が出来ていれば、豊臣政権の武功派と使僚派が分裂することなく、一丸となって危機を乗り越えることが出来たかもしれませんね。そうしたら徳川の世は来てなかったかもしれません。

日本の中心は江戸ではなく、西の方だったかもしれませんね。

そうしたら現代でも、東京ではなく、西京だったかもしれません。

 

そんなことを空想してみると、歴史って面白いなぁって感じます。

それにしても石田三成はカッコいいですね。淡々と確実に仕事をこなす。

頭の切れる、出来るひとだったんだろうなー。ポンコツな僕にはうらやましい才能です。

武功派も使僚派も、お互いが少しずつでも敬意を払っていれば、溝は浅くて済んだかもしれませんね。

お互いを尊重するってとても大切な事ですね。

その他の石田三成の記事は下記を参考にどうぞ。

石田三成の家紋と旗印。そして愛刀は?

石田三成はなぜ忠臣から奸臣へと貶められていったのか

石田三成の人間力

領主・石田三成の善政から見える性格

それでは、また。

この記事を書いている人 - WRITER -
こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。 当ブログ、「歴史大好きバイカーkickのキクログ」を運営しています。 神奈川県在住。1981年生まれの40歳。1児の父です。既婚。 現在は会社員として働く傍ら、ブログコンテンツ制作、情報発信、メディア運営などをしています。 記事の内容は、ほとんどが自身で実際に経験してみた物事を記事にしています。 このブログでは、僕と同世代の方たちが、楽しい人生を過ごすことをサポートする目的で運営しています。 誰にでもあった「楽しかったあの頃」 このブログを通して、その続きを楽しむことができたなら幸いです。 だから、キャッチフレーズは、 「青春の続き。楽しかったあの頃をもう一度」なのです。 マイペースに更新していきますのでみなさまどうぞよろしくお願いいたします。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 歴史大好きバイカーkickのキクログ , 2020 All Rights Reserved.