青春の続き。楽しかったあの時をもう一度。

豊臣秀吉の死から関ヶ原へ

 
石田三成の家紋
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こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。 当ブログ、「歴史大好きバイカーkickのキクログ」を運営しています。 神奈川県在住。1981年生まれの40歳。1児の父です。既婚。 現在は会社員として働く傍ら、ブログコンテンツ制作、情報発信、メディア運営などをしています。 記事の内容は、ほとんどが自身で実際に経験してみた物事を記事にしています。 このブログでは、僕と同世代の方たちが、楽しい人生を過ごすことをサポートする目的で運営しています。 誰にでもあった「楽しかったあの頃」 このブログを通して、その続きを楽しむことができたなら幸いです。 だから、キャッチフレーズは、 「青春の続き。楽しかったあの頃をもう一度」なのです。 マイペースに更新していきますのでみなさまどうぞよろしくお願いいたします。
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こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。

今日は豊臣秀吉の死から関ヶ原へ向かうまでの三成の様子を調べて記事にしてみました。

 

使僚派と武功派の対立

鳥居の写真

末期の豊臣政権は、秀吉の生前から近仕して、実務を取り仕切って居た石田三成らの「使僚派」と、

朝鮮に出兵して戦った加藤清正や福島正則などの「武功派」の対立が深まっていました。

 

原因は朝鮮出兵での論功行賞において、使僚派の讒言(ざんげん。事実を曲げて、ありもしない事柄を作り上げたりしてその人のことを目上の人に悪く言う事。他人を陥れるため、ありもしないことを目上の人に告げ、その人のことを悪く言う事)によって不利益を被ったという因縁がありました。

五大老の一人で豊臣秀頼の後見をしていた前田利家が両派の仲裁をしていたため衝突には至っていなかったのですが、その利家も秀吉の死から1年後の1599年に病没してしまう。

 

利家の亡くなった翌日には加藤清正と福島正則ら武功派は、城下にあった三成の邸宅に押しかけていて、この時に三成はかねてから懇意にしていた佐竹善宣に護られて伏見城に逃れるが、その後徳川家康の勧告に従って奉行を辞職。佐和山城に蟄居することになります。

そうすることで豊臣政権の混乱を収めようとしたのです。

 

権威を拡大させていた家康

 

一方で五大老の筆頭として権威を拡大させていた家康は、

1600年4月に同じ五大老の一人で会津若松城主の上杉景勝に謀反の疑いをかけました。

家康は景勝の上洛を求めましたが身の危険を感じた景勝は要請を拒絶。

上洛に応じないことが謀反の意志だとして家康は会津攻めを諸大名に命じました。

 

ちなみにこの時の家康は豊臣秀頼から金2万両と米2万石を下賜されていました。

つまり、家康は形式上、秀頼の命令によって会津攻めを行っていたことになるのです。

 

石田三成、挙兵する

日の丸の写真

家康は6月15日に大阪城を出陣して会津へと向かいました。

三成が家康に対する挙兵に踏み切ったのはこの時だったのです。

三成は豊臣恩顧の大名が秀吉に対する恩を感じているうちに家康を倒す必要があると考え、挙兵しました。すでに五奉行の中心的な役割を果たしていた浅野長政は、家康により隠居に追い込まれていました。

そのなかで家康の暴走を止めて豊臣家の安泰を守れるのは自分しかいないと考えたのかもしれませんね。

 

この後、三成は家康に従い会津攻めに向かう予定だった大谷吉継を味方にして、毛利輝元を総大将として大阪城に招きました。

 

着々と挙兵の準備をした三成は、会津に向かった諸将の妻子を人質にして挙兵した際に敵対しないようににするつもりだったのですが、細川忠興の妻、ガラシャが自死を選ぶなどの出来事などが要因となって、計画は頓挫してしまいます。

 

そして7月17日に三成は家康を弾劾する「内府ちがひの条々」を発します。これが家康に対する実質的な宣戦布告となり、関ヶ原の戦いに行きつきます。

会津攻めに向かった家康の軍勢を東軍。

畿内に残った三成の軍勢を西軍と呼ばれるようになりました。

 

7月19日、三成は上方における家康の拠点であった伏見城を攻撃しました。

総勢4万の大軍だったと言いますが、豊臣秀吉の築いた伏見城は簡単には落城せず、半月程が経過しました。

業を煮やした三成が7月29日に自ら伏見に出向き、出陣して総攻撃をかけてやっと伏見城を落城させました。

 

伏見城を落とした三成は大垣城に入ります。

大垣城を拠点にして、会津攻めを中断して畿内に戻ってくる東軍を迎え撃とうとしていましたが、

三成は守備の軍勢を大垣城に残して主力を関ヶ原に移しました。

すでに三成は松尾山城を改修したり、陣を構築したりしていて、関ヶ原で東軍の進軍を食い止めている間に西軍を畿内に集結させたほうが戦略的にも利にかなっていたのだと思います。

東軍も西軍が関ヶ原に転進したことを知り、軍勢を関ヶ原に移動しました。

そして9月15日。天下分け目の決戦が繰り広げられました。

 

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