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越後の龍 上杉謙信の年表

 
上杉家の家紋
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神奈川県生まれの38歳。妻一人、子一人。 好きなモノは日本史と戦国武将・日本刀・鎧・兜・バイク・ツーリング各種・釣り・登山。今まではバスケットをやっていましたが加齢とともに体がついていかなくて引退。一人でできるスポーツ探してます。 更新に時間がかかりますが、マイペースにゆっくりと更新を続けていきますので皆様、気長にお願いします。
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こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。

最近は公私ともに少し忙しく、更新に時間がかかってしまっていますが

自分のペースでブログの更新を楽しんでいきますのでよろしくお願いします。

さて、今回は「越後の龍」上杉謙信について調べました。

僕が武将や鎧・刀などに興味を持ったのは小学生のころ。

映画「天と地と」を見に行ってからです。

当時、小学校低学年の僕には映画の内容は難しく、母親に連れて行ってもらったのですが、案の定

爆睡していました。見たかった最後の合戦のシーンで起こしてもらい、信玄と謙信の戦いのシーンに

心躍らせたのを覚えています。

そんないきさつがあって、大勢いる戦国武将の中から誰から書こうかと考えたときに

上杉謙信が最初に出てきました。(信玄より謙信が好きなので、信玄はまたの機会に・・。)

今回は上杉謙信の年表がメインです。

 

上杉謙信 年表

年齢 詳細
1530年 0歳 1月21日、越後守護代長尾為影の末子として春日山城で誕生。
1536年 7歳 春日山城の林泉寺に入り名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修行と文武の道を学ぶ。深い学識と熱い信仰心はここで培われた。父に疎んじられていて、遠ざけるられる形で林泉寺に入れられて14歳までを過ごした。8月に謙信の兄春景が家督を相続し、12月に父為影が病死した。
1543年 14歳 元服して長尾平三景虎と名を改める。長尾領統治のため三条城(現在の三条市)、栃尾城(現在の長岡市)に移り、城主となる。兄・春景に越後をまとめる才覚はなく、越後の情勢は不安定だった。
1544年 15歳 近隣の武将が謙信のことを若輩と侮り攻撃を仕掛けてくるが、敵を見事に撃退し初陣を勝利で飾る。
1545年 16歳

10月に上杉家の老臣黒田秀忠が謙信の兄、景康を殺害して黒滝城に立てこもり謀反を起こす。

その後、秀忠は降伏するが翌年また謀反を起こしたので謙信は黒田秀忠を討伐し、黒田氏を滅ぼす。

1548年 19歳 12月に守護代上杉定実の調停により長尾春景(兄)と「父子の儀」を結び守護代長尾家を相続。越後守護代となり春日山城へ戻る
1550年 21歳 2月に上杉定実が死去し上杉家は断絶。将軍足利義輝から実質的に国主大名としての待遇が与えられる。12月には長尾政景が坂戸城に立てこもり謀反を起こすが、翌8月に降伏する。
1552年 23歳 1月、関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れ、謙信を頼って越後へ敗走。謙信は憲政のために御館を建てる。4月に後奈良天皇から従五位下、弾正少弼に叙任される
1553年 24歳

2月に兄春景が病死。6月には領土を奪われた信濃諸将の要請により武田信玄軍と対決。(第一回川中島の戦い)

9月には初めて上洛し後奈良天皇、室町幕府将軍足利義輝に拝謁。

1554年 25歳

北条城の北条高広が謀反を起こす(翌年鎮圧される)

1555年 26歳

第二回川中島の戦いが起こる。決着がつかず、駿河の今川義元の斡旋で一度和睦。

1556年 27歳

3月、家臣同士の領土争いや紛争で心身共に疲れ果てた謙信は、出家・隠居を宣言し高野山へ向かうも長尾政景らの懸命の説得で断念。大熊朝秀が謀反を起こしたため春日山城へ戻る。朝秀を撃破し、越後の統一を完成させる。

1557年 28歳

信濃進攻を進めていた武田信玄にたまりかねて信玄討伐へ向かう(第三回川中島の戦い)

1559年 30歳

4月に精兵5千を引き連れて上洛。正親町天皇、足利義輝に拝謁。

1560年 31歳

3月に松倉城の椎名康胤(しいなやすたね)らを助け富山城主神保長職を討伐。8月に関東管領上杉憲政の関東帰城の大義名分を掲げ厩橋城に入る。北条氏康と敵対している関東諸将の要請に応じて関東に進攻する。謙信は以降14回にわたって関東へ出陣している。

1561年 32歳

破竹の勢いで北条方の諸城を攻め落とし、鎌倉も占拠した。

北条氏康の小田原城を攻めるが攻略とまではいかなかった。3月に鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉家を相続し、関東管領に就任。名を政虎。のちに輝虎と改める。

第四回川中島の戦いでは川中島の戦いのなかで一番の激闘を繰り広げる。その激闘ぶりは謙信と信玄が一騎打ちしたと言われるほど。

1563年 34歳

2月に埼玉の騎西城と4月に栃木の小山城を攻略。そして謙信の師である天室光育禅師が死去。

1564年 35歳

1月に茨木の小田城を攻略。第五回川中島の戦いは、にらみ合いのみで終わる。

1568年 39歳

越中の一向一揆と椎名康胤が越後を脅かしたため松倉城・守山城を攻撃。だが出陣中に本庄城の本庄繁長が謀反を起こしたので越後に戻りこれを鎮圧する。

将軍足利義昭から関東管領に任命される

1569年 40歳

8月に椎名康胤討伐のため越中に出陣して椎名康胤を制圧。

1570年 41歳

3月に北条氏康と和睦。翌年氏康の七男氏秀を養子として父子の儀を結ぶ。12月に法号謙信を称す。

1571年 42歳

北条氏康が死去すると、後継の氏政が同盟を破棄して武田信玄と和睦。翌年、利根川を挟んで両軍と対峙する。

1572年 43歳

8月に越中にはいり一向宗徒と戦う。また、10月には富山城を攻略。

1573年 44歳

武田信玄が病死。7月には椎名康胤、神保長職を討伐して越中平定する。

1574年 45歳

北条氏政に対抗し、関東に出陣。金山城、騎西城、羽生城を攻略する。12月に剃髪して、法印大和尚に命じられる。

1576年 47歳

本願寺顕如と和睦。足利義昭の要請で武田・北条とも和睦して反信長体制を築く。能登を攻めるが攻略できず。

1577年 48歳

再び能登に進攻する。遊佐続密が謙信と内通し、反乱を起こし、能登も上杉家の支配下となる。

1578年 49歳

関東大遠征前に脳溢血で倒れ、死去。

 

上杉謙信はどんな人か

Kaz / Pixabay

上杉謙信の旗印は「毘」で、これは毘沙門天の毘をとったもの。謙信本人は自信を戦の神、毘沙門天の生まれ変わりだと信じていた。また、総攻撃の際の「かかり乱れ流の旗」から越後の龍と呼ばれていた。

父親から疎んじられて寺に入れられていた訳だが、その寺では修行を疎かにしてまで現在で言う「城攻めシュミレーションゲーム」的なものに没頭していたと言われています。

謙信は軒猿という忍者の集団を情報収集に使っていて、戦略家としても戦術家としてもすぐれていた模様。謙信は元服してから約35年間で70戦の合戦を行ってます。

戦好きで荒々しいイメージかと思いきや、和歌も好きで、その字も達筆だったそうです。

源氏物語なども好んで読み、上洛した時の歌会でも見事な雅歌(恋歌)を詠み、参加者を驚かせていたといいます。演奏も好きで琵琶を良く奏でていて、その謙信愛用の琵琶は上杉神社に現存しています。

文武両道の武将だったんですかね。戦えて、芸術面もセンス良く、字も上手で学識もある。

また、領内では衣服の原料となる植物、青苧(あおそ)の栽培を奨励し、日本海からの海路で全国へ広めるなど、領内の物産流通を統制して財源にしたり、金山運営でも莫大な利益を上げていた。

 

 

青苧の栽培の奨励は後の時代の直江兼続も行っていることから、後世にも受け継がれているのではないかと僕は思いました。謙信のこの内政がのちの兼続の会津30万石大減封となった上杉家再興に一役買っていると思うと、歴史って面白いなと思う。

妻は持たずに生涯未婚。子供は全員養子で特に好んで美男子を近くに置く戦国武将としては異色の存在。信玄が今川氏真から塩を断たれた際に今川家を批判して敵である武田家に塩を送ったという逸話も有名だけど真偽は不明。

謀反を起こした北条高広は2度許し、佐野昌綱や本庄繁長も降伏すれば帰参を許している。

遺品の甲冑の大きさや、小柄だったということから、身長は156㎝程度で誓文の血判から推定された血液型はAB型。

脳溢血か脳卒中が死因で亡くなったと言われているが、愛用の馬上杯が長年の飲酒を物語っていて、

つまみが味噌・梅干し・塩だったという事から塩分の採りすぎが死因ではないかとのこと。

しょっぱい物好きだったんですね。

 

このことから、謙信は戦もできて頭もよく、学識もある文武両道の武将で、

武将として勇猛だけど和歌や書物や音楽などの芸術を愛する繊細な心も持ってる。

第三回川中島の戦いのように、気が短いところがあるが、

2度謀反を起こした武将を許しちゃうような器の大きい一面もある。(危機感が欠如していたようにも感じられる。アルコール中毒だった説も聞いたことあるし)

 

生涯独身を貫いたため性的不能、男色家、女性説もあるけど、信仰の妨げにならないように女性を遠ざけたと考えるのが無難。そのほうがイメージ崩さないし。

上杉謙信かっこいいから好きだし。(個人的感情です。)

 

信玄は死の間際で勝頼に「謙信とは戦ってはダメだ。謙信は頼むと言えば嫌とは言わないから謙信を頼って甲斐を存続させろ」と、遺言を残したと言われています。

何度も本気で殺しあった相手にそんなことを言わせるなんて、

この二人の関係はなんてかっこいいんだろうと思いますが、

他人からそこまでの評価を得られる謙信の人格はきっと素晴らしかったのでしょう。

北条氏康も「謙信は請け負えば骨になっても義を通す。若い大将の手本にさせたい人物だ」と、

氏政や氏照に語ったと言われています。

 

まとめ

lhotsky / Pixabay

上杉謙信の年表だけを挙げようかと思っていましたが、つい熱が入ってしまってこんな長文になってしまいました。これからは武将を調べるのに、まず年表を書いていこうかと思います。そのあとに武将の色々なエピソードやゆかりの地の紹介、刀や鎧兜などの現存しているものを見に行ったりと、記事を増やしていきますね。ま、いつも通り更新はカメのごとく遅いですが・・。

あまりまとめになってなくて申し訳ないですが、最後にまとめらしいことを一つ。

上杉謙信は実力がありながら侵略的な戦いはせず、義を重んじた武将でした。

だからこそ神格化されて戦国武将最強と言われたのだと思います。

個人的にはいろいろな感覚が現代人に近かったのかな?なんて思います。

シュミレーションゲームに熱中したり、武将なのに深い学識があったり、青苧を海路で広めてみたり。

とにかく、子供の頃に憧れた上杉謙信像は、大人になった今でもかっこいい上杉謙信でした。

以上!!

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