軍師の仕事 治世・城下町編

こんばんは。歴史大好きバイカーのkickです。
皆さん、お盆休みは満喫できましたでしょうか?僕は少しのお休みを頂いて
キャンプに行ってきました。と言っても2泊3日ですけどね(笑)
たかだか3日間でしたが、普段は時間と仕事に追われている毎日なので、
時間を気にせずゆっくりと過ごせる時間はとても有意義で、リフレッシュできる時間でした。
特に早朝に自然の中でゆっくりと飲んだ一杯のコーヒーは格別でした。
次の機会を楽しみに、また仕事も頑張れそうです。
さて、今回は軍師の仕事シリーズ最終回。治世・城下町編です。
軍師の仕事 治世・城下町
国家をおさめ、経済をまわすにも軍師の智力が必要とされます。
合戦の段取りから指示、築城だけではなく、軍師たちは城下町の整備などにも携わっていました。
民が潤うことは、国が潤うことと同じことだからです。
特に江戸時代初期の軍師たちはこうした治世に積極的に関わっていきました。
戦国時代は軍師の智力を主に策略・戦術に注がなければなりませんでしたが、
戦国時代が終わりを告げて江戸時代という安定した時代が始まり、
軍師の智力を注ぐ場所が戦い以外の項目に注がれるようになったからでしょう。
軍師の活躍の場は戦場というイメージが強いですが実際には統治者としての側面も持っていて、
時代が変わり、統治者としての面が強く出てきたからでしょう。
多くの軍師が領主としての管理手腕を発揮して領国経営で成果を挙げています。
石田三成
石田三成は佐和山城領主時代に、所領内の近江伊香群で、「石田三成村掟条々」を公布しました。
この、「石田三成村掟条々」は13か条または9か条から成る独自の掟で、
領内の支配について農民に告げるものでした。目的は農民を領民として認め、その権利と義務を明確にすることです。
この規定は実に綿密に出来ていて、三成は村単位で実情を把握して具体的に・繊細に統治をしていたことが見受けられます。
これまでの代官の恣意的(思いつき・きまぐれで論理的な根拠のない)な支配体制を排除して、
検地帳に記載された耕作者の権利を保障しようとする意図も見受けられるものです。
しかも農民でも判読できるようにとの配慮でひらがな交じりで書かれています。
三成というと官僚型で物事を機械的に判断・処理するイメージが強いですが、
この繊細に作られた掟や農民への配慮する姿勢を見る限り、
人情味溢れる領民思いの藩主だったのではないのかなと感じます。
大久保長安
「天下の総代官」として徳川幕府創世期に活躍。家康の側近でした。
家康の関東移封に伴い関東の幕府直轄地支配や地行割(知行地を旗本・御家人・家臣などに割り当てること)、検知などで活躍しました。江戸城建設にも貢献して、
関東代官頭として家康の直轄地の統治に権限を持ち、五街道など交通路の整備や一里塚の建設、
八王子五百人同心の創設など、家康の関東経営の地盤固めをした功績は大きい。
また、長安は金山奉行としての功績が有名で、家康が幕府直轄地ににした佐渡山金山や
石見銀山の経営を一手に引き受け、江戸幕府の財政源として確立し、それを技術革新により産出量を激増させたという経歴を持っています。
長安の経営能力は武田家の旧家臣時代に培われ、それが磨かれていきました。
当時最先端の領国経営術をもっていた甲斐の武田家は領国経営のノウハウだけでなく、
土木・治水・鉱業などの工業技術も発展していたので、長安はそれらの技術と運営能力を習得していったのです。
直江兼続
城下町を整備して領国の骨組みを作り、繁栄に導いた軍師。
関ヶ原の戦い後、米沢120万石から会津30万石に大減俸となった上杉家を再興しました。
兼続はまず米沢城の整備から始め、本丸に次いで二の丸に重臣の邸宅と寺院を建造します。
次は三の丸を新設して、大拡張工事を行いました。
上級・中級・下級それぞれの家臣団の屋敷を建てて、その周囲には訓練所も設けました。
三の丸の東側には六町と言われる商人町を作り、その外側には職人町を配置して街道を取り込み、
北側の最上街道と南側の会津街道のどちらから入っても必ずこの商人町・職人町を通って城下を抜けるという設計になっていました。
さらにその東側と北側には防衛拠点を兼ねた寺町を置き、防衛力強化をしながら短期間で城下町の原型を完成させました。
兼続は殖産興業にも力を入れていて、青苧(あおそ)・紅花・漆などの換金作物の栽培や
鯉の養殖、ソバの栽培を奨励ました。「地下人上下共身持之書」を著して農業の振興にも尽力しています。
兼続が最も心血を注いでいたのが治水事業で、度重なる氾濫で水害の原因となっていた松川に
約10kmにも及ぶ谷地河原堤防を構築しました。
また、農地で使う水や城下の生活用水を確保するために堀立川や木場川、猿尾堰や帯刀堰の開削も行いました。
兼続の治世が実り、寛永の総検地では、米沢藩は表高30万石に対して実高は51万石に増収の結果となりました。幕藩体制で上杉家が存続できたのは兼続の領国経営あってのものでした。
まとめ
時代が変わり、軍師の智力を使う対象が戦いから統治へ変わったのは素晴らしいことだと思います。
ここでは石田三成・大久保長安・直江兼続の三人を例に挙げましたが、
みんな戦いよりも治世や城下町の整備などのほうが生き生きとしているように感じました。(実際に見たわけではないので何となくですが。)
まあ、命がけの戦いよりも、治世のほうがプレッシャーも少ないですし、何より平和なほうが良いですよね。特に直江兼続なんて上杉家の大減俸に落ち込むどころか、逆に生き生きと治世に取り組んでいる感じが見受けられます。家の為でもあり、領民の為でもあるんでしょうね。
時代は違っても人の考えることなんて似たようなことで、戦い続きでギスギスしてるよりも、争いのない平和な世界を望むのでしょう。
当たり前ですが平和が一番ですよね。それまで戦ってきて、江戸時代になってやっと掴んだ泰平の世の中ですからね。武将も様々、色々な想いがあると思いますが、「日本」として見ればそれは良かったのではないかと思います。
これで軍師の仕事シリーズは終わりとなります。ありがとうございました。
次回からは武将についての記事を書いていきます。