領主・石田三成の善政から見える性格

こんにちは。歴史大好きバイカーのkickです。
やっと夏の暑さも終わり、涼しく快適な日が訪れましたね。僕はとても暑がりなので夏は嫌いではないですが、休みの日は家から出ず、基本ぐったりしています(笑)
さて、今日は石田三成の統治の仕方や心配りからみえる三成の性格を考えてみました。
三成は自分の領地に掟書なるものを配布し、統治しました。その掟書の内容も領民のことを考えて作られた秀逸なモノ。今回はその内容も公開しています。
石田三成はどんな領主だったのか

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小田原平定後、三成は秀吉から佐和山城を与えられました。この佐和山城というお城は近江国の北部と南部の境目の位置にあり、領域の境界を守る城として古くから争奪戦が繰り広げられてきた重要な場所にあるお城です。
三成は佐和山城を居城として近江北部の4郡の領主となりました。掟条々は、この4郡の支配領域に公布されています。
掟条々は9か条のものと12か条のものの2パターンあって、その内容に大きな差はありません。
この掟条々では細かく規定を定めていて、その目的は、
・実際に民政に当たる代官の恣意的な運用を防ぐこと
そして三成は「目安」により訴えが出来ることも定めました。
代官を通さずに直接三成に訴えることが出来るようにしたものです。
もし、代官を通して訴えなければならないなら、代官が訴えを無視することも可能ですし、
代官そのものが訴えの対象なら代官は自分の保身から訴えをもみ消してしまう可能性があるからです。
そういった事の無いように、三成は庶民の立場に立って掟を定めました。
石田三成の旗印として有名な「大一大万大吉」があります。(旗印とは、旗に紋や文字を染め抜いて戦場での目印にするもので、行動の目標とでぃて掲げる主義・主張のことです。)
大一大万大吉は の記事でも書きましたが、万人が一人のため、一人が万人のために行動すればすべての人に大吉が訪れるてきな感じです。
三成ほどこの言葉通りに領地を治めようとした人はいなかったのではないでしょうか。
豊臣秀吉が太閤検地を行いました。三成の領地でも当然、検地は行われました。しかし三成は忙しく、三成自身で検地を行うことが出来ませんでした。当時は検地や年貢の取り立てなどを代官に丸投げしてしまう者の多い中、三成は島左近ら自分の家臣3人に誓詞を提出したうえで検地の仕事を任せて尚且つその事を代官に手紙で知らせました。
また、自分が直接支配する地の領民に対しての掟書が残されているが、同じ内容の掟書が同じ日付で一斉に出されています。当時、12か条からなる掟書というのはかなりの長文だったので、数人がかりで書いたと思われます。これも、4つある群に同じ日に、同じ内容で、皆に公平にという三成の想いがあったのではないでしょうか。しかも、ちゃんと農民にでも読めるようにと仮名を多用して書かれたそうです。そんな細かいところの気遣いに三成の人柄が出ていますよね。
この掟条々は領民の義務だけでなく、権利についても触れていて、考えられるトラブルを未然に防ごうとしている所が特徴的です。
家臣・領民から慕われていた石田三成
歴史は勝者が作るものです。ゆえに徳川家康に歯向かった人物として、石田三成に関する文書は江戸時代に廃棄されました。そのなかでも、先ほどの掟書は複数枚が確認されています。
さて、三成のかつての居城、佐和山城跡には石田地蔵という地蔵が祀られています。
これは関ヶ原の戦い後、悲劇に見舞われた三成の霊を慰めるために創られたものです。それほど領民に慕われていた三成の人となりがわかりますね。
また、光成に仕えた蒲生郷舎という武将は関ヶ原の戦いで対峙した織田有楽斎に自分の家来にならないかと声をかけられたが、光成を裏切ることは出来ないとして断り、首をとられたそうです。
郷舎と共に蒲生家から移ってきた他の18名もそのほとんどが同様に命を落としたそうです。
関ヶ原の戦いを離脱した三成には3人の家来が最後まで付き従っています。もしも三成の人間性に問題があり、皆から嫌われる存在であったのなら、主君のために最後まで命を賭して戦うものはいないでしょう。
そして関ヶ原の戦いの際に、井伊軍が佐和山城に入ったとき、あまりの簡素さに驚いたそうです。それならば、城の中にはさぞかし大量の財宝があるだろうと家探しをしたがついに何も出てこなかったとい言われています。主君から与えられた褒章は・・の件をきちんと実践していたのですね。
とても真面目で几帳面な性格だったことが想像できます。
石田三成 十三ヶ条 成菩提院村掟書 1596.3.1 (現代訳)

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一、農民を労働に使用する場合は千石につきつき一人とする。もっと多くの農民を使用する場合は三成の決裁を受け、農民には労働の対価として食料を提供すること。
一、役人が農民を徴用できるのは支配する農村において、農閑期だけに限る。
一、農地を耕作する権利は検地帳に記された農民にある。奪い取る、または過去の権利を主張することは禁止とする。
一、石田家直轄領の農民が家臣の名義の農地を耕作した場合は税として10%を納めること。
権利関係が複雑な場合は農民の利益を優先し一般的な税率に合わせること。
一、他人名義の農地を耕作することがあっても自分の農地の耕作を放棄してはならない。
一、古い桝は使用せず、必ず刻印のある桝を使用すること。大きさが異なる場合は平均的な桝を使用すること。
一、農民が武士の家来、町人、職人になる場合は石田家へ申請すること。
一、他の村から逃亡してきた農民を雇用してはならない。
一、糠や藁など、安価なものであっても不法に奪われた際には農民は訴状を提出する権利を有する。
一、直轄地が家臣の領地となった場合は村掟で定めた事項は無効とする。
一、農民は生活に困難なことがある場合は訴状を提出できる。ただし,事実関係はよく吟味したうえで提出すること。
一、年貢を納めると同時に付加税として2%を徴収する。俵は2重として、五里までは農民が無償で運ぶこと。五里以上は食料を提供する。
一、秋の稲刈り前に田の状態を鑑みて年貢率を決定せよ。仮に代官と農民の間に予測の違いがあった場合は代官が2/3を納め、残りは農民の取り分とする。